世界初のカーナビが
導いた未来。
エレクトロ・ジャイロケータの軌跡
ラジオから始まった、ホンダとアルパインの協業関係。
クルマを運転する際に、今や欠かせない存在になっているカーナビゲーション。免許を取ったばかりの方はもちろん、タクシーやトラックを運転するプロの方まで、安全かつスムーズに目的地に到着するために、ほとんどのドライバーがカーナビを活用している。こんな時代がやってくるとは、1981年のあの時、誰が思っていただろうか。…1981年、それはホンダとアルパインの共同開発による世界初のカーナビゲーション「エレクトロ・ジャイロケータ」が発表された年だ。なぜホンダとアルパインがエレクトロ・ジャイロケータを共同で開発することになったのか。2つの会社の協業のストーリーは、1981年の少し前まで遡る。
今現在もそうだが、アルパインは市販ビジネスのほかに、OEMビジネスも展開している。ホンダとの取引が始まったのは1978年のこと。モトローラ社との合併を解消して、社名をアルパインに変更した年からだ。この1978年にデビューしたホンダのプレリュードに、アルパインが構想設計を行ったロータリー式ラジオが純正品として採用された。当時、アルパインは業界最後発のメーカーだったが、ホンダが要求するレベルの高い仕様に応え、初受注に至ったのである。このロータリー式ラジオには、量産一号車の試験走行でプリセットの操作性の問題を指摘され、急遽設計からやり直すことになったエピソードがある。これに対し、アルパインの担当者たちは工場に泊まり込んで設計変更を何十回と繰り返し、わずか10日後に改良品を作り上げた。全力で問題解決に取り組んだアルパインの真摯な姿勢が、ホンダから全幅の信頼を獲得することになったのである。
次に、アルパインが開発した薄型電子AM/FMラジオが、ホンダのシビックに採用された。この薄型電子AM/FMラジオはボタンがソフトタッチになっていて、マニキュア爪の女性から大好評を得た。専門家からも、世界の高級車を凌駕するイージーオペレーションだと評価を受けたほどだった。こうしてアルパインとホンダは、協業関係を強めていったのである。
世界初となるカーナビを、ついに現実に。
そして1981年、前述のエレクトロ・ジャイロケータが、ホンダのアコードに採用されることになる。ジャイロケータとは、ジャイロスコープ+ロケーター(位置探知機)からの造語だ。
当時はまだGPSがない時代で、自車位置を割り出すためには、方向と距離をいかに正確に算出するかがポイントだった。方向についてはジャイロスコープで、距離はタイヤの回転数をもとに車速センサーで検出する方法がとられた。
この時に採用されたジャイロスコープが、ホンダが独自で開発したガスレートジャイロセンサーである。
ガスレートジャイロは、真空に保たれた円筒形のケース内に2本一対の熱線流速計を設置し、これにヘリウムガスが常に均等に噴射するように設計された恒温槽構造からなっている。ガスは進行方向に対して発生しているので、移動体(=自動車)が方向を変えると慣性によってガスの流れは微妙に変化する。その変化の度合いを検知して角速度に変換することによって、方向を導き出したわけである。
このジャイロを使い、CPUとソフトウェアを組み込むことで、白黒6インチのCRTモニターに光の点で自車位置を表示。透明なシートに描かれた地図を、モニター画面の前に挿入し、シートと自車位置が重なり合うことで自分の位置を知るという原理だった。今のカーナビと比べれば原始的なものかもしれないが、それは現在に続く車載用情報通信機器が誕生した瞬間であった。アルパインは、このエレクトロ・ジャイロケータの開発をホンダとともに行っていくことで、カーナビのトップを走るメーカーになっていた。
ホンダとの協業で磨き上げた開発力と技術力。
エレクトロ・ジャイロケータは、アコードのオプションとして29万9000円で用意された。しかし時代が早すぎたのか、価格が高すぎたのか、販売数は予定よりも大幅に少なかった。場所がフィルムシートの地図からはみ出ると、手動でシートを入れ替えなければならない手間もあり、この方式が市場に根付くことはなかった。
しかしエレクトロ・ジャイロケータの開発を通じて、ホンダとアルパインは、企業と企業という関係だけでなく、人と人のつながりも強固にしていった。自動車業界において先進的な技術開発を追求してきたホンダの人たちに対し、創造・情熱・挑戦という今に続くモットーを持ったアルパインの各部署の人間が、その考えや想いにしっかりと応えていったことが大きかった。また高度な要求が常であるホンダと協業していく中で、アルパインは自分たちの開発力と技術力を磨き上げていくことになった。そしてエレクトロ・ジャイロケータの発売から10年後…。アルパインは再びホンダからカーナビを受注することとなり、事業の中心になるまで関係を拡大させていったのである。